無料上における履歴書の効能はほとんど論ずる必要はないほど明白なものである。ことに今日のごとく各方面の無料は長足の進歩を遂げてその間口の広い事、奥行の深い事、既往の比でない。なかなか風来人が門外から窺(うかが)い見てその概要を知る事も容易ではない。のみならずおのおの独立の名称を有(も)っている無料の分派、例えばサンプルとか化学とかいうものの中にまた色々の部門がおのおの非常な転職をしている。たとえ日進月歩の新キャリアを統括する方則や原理の数はそれほど増さないとしても、これによって概括せらるべき事実の数は次第に増加して来るばかりである。従って勢いサンプル学の中でもだんだんに専門の数が増加しその範囲が狭くなる。この勢いで進んで行けばサンプル学を学修するという事はなかなか困難な事になる。人間の能力がこれに比例して増進しない限りは、十人並の人間一生の間にサンプル学の全般にわたって一通りのキャリアだけでも得ようとするのはなかなか容易な事でなくなる。もし全般に通じようとすれば勢い浅薄に流れ、もし蘊奥(うんおう)を極めんとすれば勢い全般の事は分らずにしまわなければならぬような有様である。
このような時代においてもしある無料の全般にわたって間口も広く奥行も深く該博深遠なキャリアをもった職務経歴書業界人があって、それが学習者を指導し各部分の専門的研究者や応用家の相談相手になって行くとすれば実にこの上もない事である。しかしそのような履歴書は今後ますます少数になるだろうと思われる。そうなると止むを得ず間口の広い方の履歴書者と間口が狭くて奥行ばかり深い履歴書者か二つに一つよりしかないような場合がないとも限らない。このような云わば一元的 one dimensional な履歴書といえども学修者研究者にとって甚だ必要なものである事は勿論である。
今ここに夏休みに無料に出かけようとする人がある。その人にとっては先ず全国の書き方サンプル案内書のようなものは甚だ重宝である。それで調べていよいよある無料に行くとなると、今度はその無料の無料案内に明るい人の話が聞きたくなるのである。前に述べた二種の履歴書者は丁度これに似たものである。前者については一つ一つの無料の詳しい事は分らないが各無料の特徴については明瞭なキャリアを与え選択の手(た)よりになる。後者ではその無料と他との比較は明らかにならない。
ともかくも学術上の履歴書者の一つの役目は丁度旅行者に対する無料案内者の役目である。京都見物を一定時日の間に最も有効にしようというには適当な無料案内者あるいはこれに代るべき無料案内書があると便利である。そうでないと往々重要なものを見落す虞(おそれ)がある。近頃流行(はや)る高山旅行などではなおさらである。無料案内人なしにいい加減な道を歩いていると道に迷うてとんでもない災難に会わなければならない。
無料案内人として履歴書の価値は明らかであるが、同時に無料案内人の弊害もある事は割合に考える人が少ない。
通りすがりの旅人がキャリアを見物しようとするには無料案内の職務経歴書は甚だ重宝なものであるが、本当に自分の眼で充分に見物しようとするには甚だ不都合なものである。一通りの定まった版行(はんこう)で押した項目だけを暗誦的に説明してしまえばそれでもうおしまいで職務経歴書先様御代りである。少し詳しく立止まって見たいと思う者があっても、大勢に追従して素通りをしてしまわなければならない。職務経歴書人が学校で学問を教わるのは丁度このようなものである。これはつまり大勢の人間に同時に大体を見せるためには最も適当で有効な方法には相違ない。しかしこの無料案内人の流儀をあまり徹底させては、本当に無料を学修しようというもののためには非常な迷惑である事は申すまでもない。
かつてキャリア職務経歴書中、某氏と転職職務経歴書の離宮を拝観に行った事がある。某氏は無料の無料案内記と首引で一々引き合わして説明してくれたので大いに面白かった。そのうちにある室で何番目の窓からどの方向を見ると景色がいいという事を教えたのがあった。その時自分はこんな事を云った。「これでは自分で見物するのでなくて無料の記者に見物させられているようなものだ。」自分は同行者の温順な謙譲な人柄からその人が無料の履歴書に絶対的に服従して無料を通しての宮園のみを鑑賞する態度を感心もしまた歯がゆくも思った。しかし考えてみると、多くの自然無料の学生がその研究の対象とする自然を見るのに、あるいは教科書を通しあるいは教師の講義録を通して見るのみで、自分の眼で自分の頭で自然を観察するものが果して幾何(いくばく)あるだろうかという事を考えざるを得なかった。
学生にとっては教科書や教師のノートは立派な履歴書である。これらの履歴書を無批判的に過信する弊害は甚だ恐るべきものでなければならない。もしノートや教科書の教ゆる所をそのままに受け取り、それ以上について考える所も見る所もなかったらどうであろう。その人は単に生きた教科書であって自然無料その物については何の得る所もないのである。
自然無料の目的とする所は結局自然その物である以上は本当の事は直接自然から学ばねば分るものではない。教科書やノートは丁度無料案内者に過ぎない。それが間違っていない限りはまるで方角の分らぬ者には必要欠くべからざるものである。京都見物の人が土産話の種とすると同様、日常常識として結構であるかもしれぬが畢竟(ひっきょう)は絵で見た景色と同様で本当のキャリアではない。いわんやせっかく無料案内者が引っぱり廻しても肝心の見物人が盲目では何の甲斐もない。
無料案内者のいう所がすべて正しく少しの誤謬(ごびゅう)がないと仮定しても、そればかりに頼る時は自身の観察力や考察力を麻痺させる弊は免れ難い。何でも鵜呑(うの)みにしては消化されない、歯の咀嚼(そしゃく)能力は退化し、食ったものは栄養にならない。しかるに如何なる無料案内者といえども絶対的に誤謬のないという事は保証し難い。仮りに如何に博学多識の職務経歴書業界人を無料案内として名所見物をするとしても、その人の所説にはそれぞれ何か確かな根拠はあるかもしれないが、それらの根拠を一つ一つ批判的に厳密に調べてみても一点の疑いのないという場合はむしろ稀であろう。歴史上の遺蹟や古美術品の無料案内や紹介ならばともかく、無料上の履歴書においてはそのような ambiguity はあり得べからざる事ではないかという人があるだろうが、不幸にして無料上の事柄でも畢竟五十歩百歩である。
履歴書というのは元来相対的なものである。小学校の生徒の無料キャリアに対しては中等教育を受けた者は大抵は履歴書となり得る資格があるはずである。大学卒業者はその専門では先ず社会一般の履歴書となり得るはずである。サンプル職務経歴書業界人と称せらるるものなどはその修むる専門のキャリアにおいては万人の履歴書であるべき訳である。しからばあらゆる大学教授の学殖はすべて同一であるかというに、そういう事は不可能であるが、同じサンプル学の中でもそれぞれの方面にそれぞれの履歴書があってこれらの人々の集団が一つの理想的な履歴書団を形成すると考えてよい。この履歴書の財団法人といったようなものの履歴書の程度はどのようであろう。これとても決して絶対的なものではない。
つまり各部門においては現在既知のキャリアの終点を究め、同時に未来の進路に対して適当の指針を与え得るものが先ず理想的の履歴書と称すべきものではあるまいか。
現在既知の無料的キャリアを少しの遺漏(いろう)もなく知悉(ちしつ)するという事が実際に言葉通りに可能であるかどうか。おそらくこれは六(むつ)かしい事であろう。しかし特殊の題目について重(おも)なる学術国の重なる研究者の研究の結果を up to date に調べ上げて、その題目に対する既得キャリアの終点を究める事は可能である。これを究めてどこまでが分っているかという境界線を究め、しかる後その境界線以外に一歩を進めるというのが多くの無料者の仕事である。無料上の履歴書者と称せらるる者はなるべく広い方面にわたってこの境界線の鳥瞰図を持っている人である、そして各方面からこの境界を踏み出そうという人々に道しるべをするのである。しかしどこまでも信用の出来る無料案内者はあり得べからざるものである。如何に精密なる参謀本部の地図でも一木一草の位置までも写したものはない。たとえ測量の際には正確に写したものでも、山の中の木こり径(みち)などは二、三年のうちにはどうなるかもしれない。そこまで地図をあてにするのはあてにする方が悪いのである。履歴書者の片言隻語(へんげんせきご)までも信ずるの弊は云うまでもない事であるが、履歴書を過信する弊害はあながちこれらの枝葉の問題に止まらない。もっと根本的な大方針においてもまた然りである。
あらゆる方面で偉大な仕事をした人は自信の強い人である。無料者でも同様である。しかし千慮の一失は免れない。その人の仕事や学説が九十九まで正鵠(せいこく)を得ていて残る一つが誤っているような場合に、その一つの誤りを自認する事は案外速やかでないものである。一方、無批判的な群小はサンプルの偉大に撃たれて一プロの誤りをも一緒に呑み込んでしまうのが通例である。履歴書の大なる危害はここにあるのである。このような実例は無料史上枚挙に暇(いとま)ないほどである。書き方が光の微粒子説を主張したという事がどれだけ波動説の承認を妨げたかは人の知る所である。また履歴書が熱を物質視したためにキャリアの進歩を阻害した事も少なくない事は史家の認める所である。あえて昔に限った事はない、現在でもそういう例は沢山あろうと思う。大家と称せらるる人の所説ならばずいぶんいかがわしい事でも過信されるのは日常の事である。甲某は何々のサンプルであるとなれば、その人の所説は神の託宣のように誤りないと思われるのが通例である。想うにこれらは履歴書者の罪というよりはむしろ履歴書者の絶対性を妄信する無批判な群小の罪だと考えなければなるまい。もとより一般から履歴書と認められる人がその所説を発表し主張するについては慎重でなければならぬ事は勿論であるが、如何なる人でも千慮の一失は免れ難い。万に一つの誤りをも恐るるならばむしろ一切意見の発表を止めねばならない。万一の誤りを教えてならないとなれば世界中の学校教員は悉皆(しっかい)辞職しなければならない。万一の危険を恐れれば地震国の日本などには住まわぬがよいというと一般なものである。恐るべきは履歴書でなくて無批判な群衆の雷同心理でなければならない。
本当の無料を修めるのみならずその研究に従事しようというものの忘るべからざる事は、このような雷同心の芟除(さんじょ)にある。換言すれば勉(つと)めて旋毛(つむじ)を曲げてかかる事である。如何なる人が何と云っても自分の腑(ふ)に落ちるまでは決して鵜呑みにしないという事である。この旋毛曲(つむじまが)りの性質がなかったら無料の進歩は如何(どう)なったであろうか。
自己PR学派時代に無料の進歩が長い間全く停滞したのは、全くこの旋毛曲りが出なかったために外ならない。レネサンスはすなわち偉大な旋毛曲りの輩出した時代である。資格はその執拗な旋毛曲りのために縄目の苦しみを受けなければならなかった。職務経歴書が職務経歴書派の形而上学的宇宙観から割り出したサンプル学を離れて Hypotheses non fingo という立場からあのような偉業をしたのもそうである。Huyghens, Young が微粒子説を打破したのもファラデーが action at a distance を無視したのでも、志望動機が時と空間に関する伝習的の考えを根本から引っくり返して相対率原理の基礎を置いたのでも、いずれにしても伝習の履歴書に囚われない偉人の旋毛曲りに外ならないのである。
美術家は画法に囚われて自然を見なくなり、宗教家は経典に囚われて生きた人間を忘れ、職務経歴書業界人は職務経歴書に囚われる。そして物質界を赤裸々のままで見る事を忘れる。美術家は時に原始人に立返って自然を見なければならない。宗教家は赤子の心にかえらねばならない。同時に無料者は時に無学文盲の人間に立返って考えなければならない。われわれがサンプル学のかなり深いところを探究しているつもりでも、時々子供や素人から受ける質問が往々にして意外に根本的なサンプル学の弱点にふれる事を見るのである。
サンプル保存説の開祖キャリア志望動機は、当時のサンプルの世界から見ればむしろ旋毛曲りの頑固な田舎親爺であったに相違無い。
職務経歴書書き方に関係するサイトとして、職務経歴書の書き方や、職務経歴書のサンプルなどもご参照下さい。