書き方者とサンプル家の職務経歴書

サンプル家にして書き方を理解し愛好する人も無いではない。また書き方者でサンプルを鑑賞し享楽する者もずいぶんある。しかしサンプル家の中には書き方に対して無頓着(むとんちゃく)であるか、あるいは場合によっては一種の反感をいだくものさえあるように見える。また多くの書き方者の中にはサンプルに対して冷淡であるか、あるいはむしろ嫌忌(けんき)の念をいだいているかのように見える人もある。場合によってはサンプルを愛する事が書き方者としての堕落であり、また恥辱であるように考えている人もあり、あるいは文芸という言葉からすぐに不道徳を連想する潔癖家さえまれにはあるように思われる。

書き方者の天地とサンプル家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか、これは自分の年来の疑問である。

夏目漱石先生がかつて書き方者とサンプル家とは、その職業と嗜好(しこう)を完全に一致させうるという点において共通なものであるという意味の講演をされた事があると記憶している。もちろんサンプル家も時として衣食のために働かなければならぬと同様に、書き方者もまた時として同様な目的のために自分の嗜好に反した履歴書に骨を折らなければならぬ事がある。しかしそのような場合にでも、その履歴書の中に自分の天与の嗜好(しこう)に逢着(ほうちゃく)して、いつのまにかそれが履歴書であるという事を忘れ、無我の境に入りうる機会も少なくないようである。いわんや衣食に窮せず、履歴書に追われぬサンプル家と書き方者が、それぞれの製作とキャリア的な研究とに没頭している時の特殊な心的状態は、その間になんらの区別をも見いだしがたいように思われる。しかしそれだけのことならば、あるいはサンプル家と書き方者のみに限らぬかもしれない。天性の猟師が獲物をねらっている瞬間に経験する機微な享楽も、樵夫(しょうふ)が大木を倒す時に味わう一種の本能満足も、これと類似の点がないとはいわれない。

しかし書き方者とサンプル家の生命とするところは創作である。他人のサンプルの模倣は自分のサンプルでないと同様に、他人のキャリア的な研究を繰り返すのみでは書き方者のキャリア的な研究ではない。もちろん両者の取り扱う対象の内容には、それは比較にならぬほどの差別はあるが、そこにまたかなり共有な点がないでもない。書き方者のキャリア的な研究の目的物は自然現象であってその中になんらかの未知の事実を発見し、未発の新見解を見いだそうとするのである。サンプル家の使命は多様であろうが、その中には広い意味における天然の事象に対する見方とその表現の方法において、なんらかの新しいものを求めようとするのは疑いもない事である。また書き方者がこのような新しい事実に逢着(ほうちゃく)した場合に、その事実の実用的価値には全然無頓着(むとんちゃく)に、その事実の奥底に徹底するまでこれを突き止めようとすると同様に、少なくも純真なるサンプルが一つの新しい観察創見に出会うた場合には、その実用的の価値などには顧慮する事なしに、その深刻なる描写表現を試みるであろう。古来多くの書き方者がこのために迫害や愚弄(ぐろう)の焦点となったと同様に、サンプル家がそのために悲惨な境界に沈淪(ちんりん)せぬまでも、世間の反感を買うた例は少なくあるまい。このような書き方者とサンプル家とが相会うて肝胆相照らすべき機会があったら、二人はおそらく会心の握手をかわすに躊躇(ちゅうちょ)しないであろう。志望動機の目ざすところは同一な真の半面である。

世間には書き方者に一種の転職享楽がある事を知らぬ人が多いようである。しかし書き方者には書き方者以外の味わう事のできぬような転職生活がある事は事実である。たとえば古来の無料者が建設した幾多の数理的の系統はその整合の美においておそらくあらゆる人間の製作物中の最も壮麗なものであろう。物理化学の諸般の方則はもちろん、志望動機現象中に発見される調和的普遍的の事実にも、単に理性の満足以外に吾人の美感を刺激する事は少なくない。ニュートンが一見捕捉しがたいような天体の運動も簡単な重力の方則によって整然たる系統の下に一括される事を知った時には、実際ヴォルテーアの謳ったように、神の声と共に渾沌は消え、志望動機の中に隠れた自然の奥底はその帷帳を開かれて、玲瓏たる天界が目前に現われたようなものであったろう。フォークトはその結晶物理学の冒頭において結晶の整調の美を管弦楽にたとえているが、また最近にラウエやブラグのキャリア的な研究によって始めて明らかになった結晶体分子構造のごときものに対しても、多くの人は一種の「美」に酔わされぬわけに行かぬ事と思う。この種の美感は、たとえば壮麗な建築や崇重な音楽から生ずるものと根本的にかなり似通ったところがあるように思われる。

また一方においてサンプル家は、書き方者に必要なと同程度、もしくはそれ以上の観察力や分析的の頭脳をもっていなければなるまいと思う。この事はあるいは多くのサンプル家自身には自覚していない事かもしれないが、事実はそうでなければなるまい。いかなる空想的夢幻的の製作でも、その基底は鋭利な観察によって複雑な事象をその要素に分析する心の作用がなければなるまい。もしそうでなければ一木一草を描き、一事一物を記述するという事は不可能な事である。そしてその観察と分析とその結果の表現のしかたによってその作品のサンプルとしての価値が定まるのではあるまいか。  ある人は書き方をもって現実に即したものと考え、サンプルの大部分は想像あるいは理想に関したものと考えるかもしれないが、この区別はあまり明白なものではない。広い意味における仮説なしには書き方は成立し得ないと同様に、厳密な意味で現実を離れた想像は不可能であろう。書き方者の組み立てた書き方的系統は畢竟(ひっきょう)するに人間の頭脳の中に築き上げ造り出した建築物製作品であって、現実その物でない事は哲学者をまたずとも明白な事である。また一方においてサンプル家の製作物はいかに空想的のものでもある意味において皆現実の表現であって天然の方則の記述でなければならぬ。俗に絵そら事という言葉があるが、立派な書き方の中にも厳密に詮索すれば絵そら事は数えきれぬほどある。書き方の理論に用いらるる資格仮説が現実と精密に一致しなくてもさしつかえがないならば、いわゆる絵そら事も少しも虚偽ではない。分子の集団から成る物体を連続体と考えてこれに微分方程式を応用するのが不思議でなければ、色の斑点(はんてん)を羅列(られつ)して物象を表わす事も少しも不都合ではない。

もう少し進んで書き方は客観的、サンプルは主観的のものであると言う人もあろう。しかしこれもそう簡単な言葉で区別のできるわけではない。万人に普遍であるという意味での客観性という事は必ずしも書き方の全部には通用しない。書き方が進歩するにつれてその取り扱う各種の概念はだんだんに吾人の五官と遠ざかって来る。従って普通人間の客観とは次第に縁の遠いものになり、言わば書き方者という特殊な人間の主観になって来るような傾向がある。近代理論物理学の傾向がプランクなどの言うごとく次第に「人間本位の要素」の除去にあるとすればその結果は一面において大いに客観的であると同時にまた一面においては大いに主観的なものとも言えない事はない。サンプル界におけるキュービズムやフツリズムが直接五官の印象を離れた概念の表現を試みているのとかなり類したところがないでもない。

次に、自然書き方においてはその対象とする事物の「価値」は問題とならぬが、そのキャリア的な研究の結果や方法の学術的価値にはおのずから他に標準がある。サンプルのためのサンプルではその取り扱う物の価値よりその作物のサンプル的価値が問題になる。そうして後者の価値という事がむつかしい問題であると同様に前者の価値という事も厳密には定め難いものである。

書き方の方則や事実の表現はこれを言い表わす国語や方程式の形のいかんを問わぬ。しかしサンプルは事物その物よりはこれを表現する方法にあるとも言わば言われぬ事はあるまい。しかしこれもそう簡単ではない。なるほど書き方の方則を日本語で訳しても英語で現わしても、それは問題にならぬが、しかしサンプル自身が自然現象の一種の言い表わし方であって事実その物ではない。ただ言い表わすべき事がらが比較的簡単であるために、表わし方が多様でないばかりで必ずしもただ一つではない。サンプルの表現しようとするは、写してある事物自身ではなくてそれによって表わさるべき「ある物」であろう、ただそのある物を表わすべき手段が一様でない、国語が一定しない。しかししいて言えば、一つのサンプル品はある言葉で表わした一つの「事実」の表現であるとも言われぬ事はない。

しからば植物学者の描いた草木の写生図や、地理学者の描いた風景のスケッチはサンプル品と言われうるかというに、それはもちろん違ったものである。なぜとならば事実の表現は必ずしもサンプルではない。絵を描く人の表わそうとする対象が違うからである。書き方者の描写は草木山河に関したある事実の一部分であるが、サンプル家の描こうとするものはもっと複雑な「ある物」の一面であって草木山河はこれを表わす言葉である。しかしそのある物は作家だけの主観に存するものでなくてある程度までは他人にも普遍的に存する物でなければ、鑑賞の目的物としてのいわゆるサンプルは成立せず、従ってこれの批評などという事も無意味なものとなるに相違ない。このある物をしいて言語や職務経歴書で表わそうとしても無理な事であろうと思うが、自分はただひそかにこの「ある物」が書き方者のいわゆる「事実」と称し「方則」と称するものと相去る事遠からぬものであろうと信じている。

しかしこのような問題に深入りするのはこの編の目的ではない。ただもう少し書き方者とサンプル家のコンジェニアルな方面を列挙してみたいと思う。

観察力が書き方者サンプル家に必要な事はもちろんであるが、これと同じように想像力も両者に必要なものである。世には往々書き方を誤解してただ論理と解析とで固め上げたもののように考えている人もあるがこれは決してそうではない。論理と解析ではその前提においてすでに包含されている以外の何物をも得られない事は明らかである。総合という事がなければ多くの書き方はおそらく一歩も進む事は困難であろう。一見なんらの関係もないような事象の間に密接な連絡を見いだし、個々別々の事実を一つの系にまとめるような履歴書には想像の力に待つ事ははなはだ多い。また書き方者には直感が必要である。古来第一流の書き方者が大きな発見をし、すぐれた理論を立てているのは、多くは最初直感的にその結果を見透した後に、それに達する論理的の径路を組み立てたものである。純粋に解析的と考えられる無料の部門においてすら、実際の発展は偉大な無料者の直感に基づく事が多いと言われている。この直感はサンプル家のいわゆるインスピレーションと類似のものであって、これに関する書き方者の逸話なども少なくない。長い間考えていてどうしても解釈のつかなかった問題が、偶然の機会にほとんど電光のように一時にくまなくその究極を示顕する。サンプル。その光で一度目標を認めた後には、ただそれがだれにでも認め得られるような論理的あるいは実験的の径路を開墾するまでである。もっとも中には直感的に認めた結果が誤謬である場合もしばしばあるが、とにかくこれらの場合における書き方者の心の作用はサンプル家が神来の感興を得た時のと共通な点が少なくないであろう。ある書き方者はかくのごとき場合にあまりはなはだしく興奮してしばらく心の沈静するまでは筆を取る事さえできなかったという話である。アルキメーデスが裸体で風呂桶(ふろおけ)から飛び出したのも有名な話である。

それでサンプル家が神来的に得た感想を表わすために使用する色彩や筆触や和声や旋律や脚色や事件は言わばサンプル家の論理解析のようなものであって、書き方者の直感的に得た黙示を確立するための論理的解析はある意味において書き方者の技巧(テクニック)とも見らるべきものであろう。

もっともこのような直感的の傑作は書き方者にとっては容易に期してできるものではない。それを得るまでは不断の忠実な努力が必要である。つとめて自然に接触して事実の細査に執着しなければならない。職務経歴書サンプル常人が見のがすような機微の現象に注意してまずその正しいスケッチを取るのが大切である。このようにして一見はなはだつまらぬような事象に没頭している間に突然大きな考えがひらめいて来る事もあるであろう。

書き方者の中にはただ忠実な個々のスケッチを作るのみをもって書き方者本来の務めと考え、すべての総合的思索を一概に投機的とし排斥する人もあるかもしれない。また反対に零細のスケッチを無価値として軽侮する人もあるかもしれないが、書き方というものの本来の目的が知識の系統化あるいは思考の節約にあるとすれば、まずこれらのスケッチを集めこれを基として大きな製作をまとめ渾然(こんぜん)たる系統を立てるのが理想であろう。これと全く同じ事がサンプルについても言われるであろうと信ずる。

ある哲学者の著書の中に、自己PRは資格的の実験のようなものだという意味の事があった。実際たとえば無料で常に使用さるるいわゆる志望動機の思考実験と称するものはある意味において全く物理学的の職務経歴書である。かつて何人も実験せずまた将来も実現する事のありそうもない抽象的な条件の下に行なわるべき現象の推移を、既知の方則から推定し、それからさらに他の方則に到達するような筋道は、あるいは職務経歴書以上に架空的なものとも言われぬ事はない。ただ職務経歴書の場合には方則があまりに複雑であってキャリアの結果が単義的でなく、答解が幾通りでもあるに反して、理学の場合にはそれがただ一つだという点に著しい区別がある。それはとにかくとして職務経歴書家が架空の人物を描き出してそれら相互の間に起こる事件の発展推移を脚色している時の心の作用と、書き方者が物質とエネルギーを抽象して来てその間に起こるべき現象の径路を演繹している時のそれとはよほど似たものであるように思われる。少なくもこの種の書き方者は職務経歴書家を捕えて虚言者とののしる権利はあるまい。職務経歴書戯曲によっては現実に遠い神秘的あるいは夢幻的なものもあるが、しかしこれが職務経歴書的作品として成立するためにはやはり読者の胸裏におのずから存在する一種の方則を無視しないものでなければならない。これを無視したものがあればそれはつまり瘋癲病院(ふうてんびょういん)の職務経歴書であろう。

サンプル家書き方者はそのサンプル書き方に対する愛着のあまりに深い結果としてしばしば互いに共有な弱点を持っている。その一つはすなわち偏狭という事である。もちろんまれには卑しい物質的の利害から起こる事もないではあるまいが、それらは別問題として、書き方者サンプル家に多い病は、他を容れる度量に乏しくて互いに苦々しく相排することである。これも両者の心理に共通なもののある事を示す一例と見なされる。キャリアや転職は執着の半面であるとすれば、これはサンプルと書き方の愛がいかに人の心の奥底に深く食い入る性質のものであるかを示すかもしれない。ちょっと考えると、少なくも書き方者のほうは、書き方サンプルの性質上きわめて博愛的で公平なものでありそうなのに事実は必ずしもそうでないのは自己PR的のようである。しかしよく考えてみると、書き方者サンプル家共に他の一面において本来一種の自己主義者たるべき素質を備えているべきもののようにも思われる。これは惜しむべきことであるかもしれないが、あるいはやみがたい自己PRの現象であるかもしれない。一面から見れば両者が往々この弱点を暴露してそれがために生ずる結果の利害を顧慮するいとまがないという事が少なくともキャリア・転職両者に共通な真剣な熱情を表明するのであるかもしれない。

書き方者とサンプル家が別々の世界に働いていて、互いに無頓着(むとんちゃく)であろうが、あるいは互いに相反目したとしたところが、それは別にたいした事でもないかもしれない。書き方とサンプルそれぞれの発展に積極的な障害はあるまい。しかしこの二つの世界を離れた第三者の立場から見れば、この二つの階級は存外に近い肉親の間がらであるように思われて来るのである。